【犠牲者の痛ましいメモ】福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件

   2018/02/05

事件概要

 1970年(昭和45年)7月に北海道日高郡静内町(現・新ひだか町静内高見)の日高山脈のカムイエクウチカウシ山で発生した獣害事件。若い雌のヒグマが登山中の福岡大学のワンダーフォーゲル部を襲い、入山した5名のうち3名が死亡することとなった。

ヒグマとの最初の遭遇。この時の過ちが後の運命を決めることとなった…

 福岡大の5人は1970年7月14日、日高山脈縦走のため、北部の芽室岳から入山した。25日午後3時20分ごろ、カムイエクウチカウシ山北側にある九の沢カールに着いてテントを設営。午後4時半ごろ、夕食後に全員がテント内にいたとき、6-7メートル先にクマを発見した。最初は興味本位に眺めていたが、やがて外にあったザックをあさり食料を食べ始めたので、すきを見てザックを回収、すべてテント内に入れた。火をたき、ラジオを鳴らし、食器をたたいていると、クマは30分ほどで姿を消した(第1の襲撃)。午後9時ごろ、クマの鼻息がして、テントにこぶし大の穴があく。2人ずつ交替で起きて見張りをした(第2の襲撃)。

救助要請のため2名が下山を開始。

 7月26日午前3時起床。撤収準備中の午前4時半、再びクマが現れ、近づいてきた。テントに入ろうとするので、5人は支柱やテント地を握り、5分間ほど、クマとテントを引っ張り合う形になった(第3の襲撃)。最後にグマと反対側の幕を上げ5人そろって稜線方向に逃げ出し、50メートルほど離れた。クマはテントを倒し、ザックの中身をあさっていた。ザックをくわえては低木帯の中に隠すという行動をくり返した。

 リーダーA君の指示で、サブリーダーB君と最年少E君の2人が救助要請のため下山することになった。下山途中の午前7時ごろ、八の沢出合いで北海学園大の18人パーティーに出会い、救援要請を伝言。コンロや食料、燃料、地図を借り受け、残った3人を助けるために戻った。

避難判断の遅れ、バラバラになってはぐれたパーティ

 26日午後1時、カムエク岳近くの稜線で下った2人と残った3人が合流。稜線上で鳥取大、中央鉄道学園のパーティーに会う。

 午後3時、稜線上のほうが安全と判断してテントを張る。午後4時半、ヒグマ出現。縦走路を50メートルほど下って、1時間半ほど様子を見る。

 午後6時ごろ、鳥取大のテントに避難させてもらうことに決定。稜線を外れて、カールを下り始める。

 午後6時半、稜線から60-70メートル下ったところですぐ後ろにいるクマに気づき、全員が駆け下りる。E君が最初に襲われ、ヤブの中で悲鳴や格闘の音がした後、「足を引きずりながら、カール底の鳥取大テントの方に向かって行くのが見えた」という。

 リーダーA君が「全員集合」をかけたが、集まったのはB君、D君の3人のみ。2年生のC君は、答える声は30メートルほど下から聞こえたが戻らず、そのままはぐれてしまった。C君はこの後、1人で夜を過ごし、翌日の27日午後3時までは生存していたことが、遺品のメモから分かった。

 午後8時ごろ、3人は安全そうな岩場に身を寄せ、ビバークした。鳥取大はたき火をし、ホイッスルを吹くなどしてくれたが、その後、沢沿いに下山したようだった。

 27日朝は霧が濃かった。3人は午前8時から行動を開始。岩場から下るとまもなく、目の前にクマが出現した。リーダーA君がクマを押しのけるように進み、そのままカールの底の方へとクマに追われていった。A君も遺体で発見される。残った2人はカールを避けながら八の沢に出て、沢を下った。

 午後1時、砂防ダム工事現場に着き、車を手配してもらう。午後6時、中札内駐在所に2人は保護された。

最初にはぐれたC君の遺品…息絶えるまでを切実に記したメモ

 26日夕方に仲間とはぐれたC君は、孤独と恐怖の中で手帳にメモを残していた。

「下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。仕方ないから、今夜はここでしんぼうしようと…」

 彼は焚き火が見えた鳥取大のテントに逃げ込もうと夕暮れの中を下ったが、クマに見つかり、追われる形になった。ガケに上り、石を投げつけた。

「15㎝くらいの石を鼻を目がけて投げる。当った。クマは後さがりする。腰をおろして、オレをにらんでいた。オレはもう食われてしまうと思って…一目散に、逃げることを決め逃げる」

 転びながら、後ろを振り返らず、やっと逃げ込めたテントには誰もいなかった。

なぜかシュラフに入っていると、安心感がでてきて落ちついた。それからみんなのことを考えたが、こうなったからには仕方がない。風の音や草が、いやに気になって眠れない。鳥取大WVが無事報告して、救助隊がくることを、祈って寝る」

 翌27日、早朝から目は覚めた。テントの中のご飯を食べて少し落ち着いたが、状況は変わらない。

「外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。ああ、早く博多に帰りたい」

 午前7時、下山を決意して握り飯を作り、テント内のシャツや靴下を借りて外に出た。しかし…

「5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる」

 絶望のメモは字が乱れ、不安を書き記して途絶える。

「3:00頃まで…(判読不能)他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ、助けに来るのか。すべて、不安でおそろしい…またガスが濃くなって……」

 この後C君は、1人でテントにいるところを襲われて亡くなったらしい。

3名の死亡者を出すこの事故はなぜ起こったか

 事件から15年後の1985年、ヒグマの会の会報「ヒグマ」に、当時捜索や救援に当たった地元のハンターや登山家ら9人による座談会が掲載されている。そこで挙げられた要因の第一が、「一度クマに奪われたザックを取り返した」という点だった。

 第1から第3の襲撃までは、このクマは人間ではなく、ザックとその中の食べ物を目当てにしているようだ。学生たちも、身の危険を強く感じている様子ではない。クマが積極的に攻撃してくるケースには、「子グマを守る」「遭遇して興奮した」と並んで、「獲物を守ろうとする」という行動がある。日高の場合、たとえ人間が所有する大事なザックであっても、クマがいったん荒らして中の物を食べた場合、人間が「取り返す」行動は、クマからすると「奪われた」ことになる。

 福岡大の場合は、ザックの行き来が何回もあり、次第にヒグマの行動が大胆に、攻撃的になってきている。そして、第3の襲撃(テントの引っ張り合い)を境に、ヒグマは人間そのものを執拗に追うようになった。至近距離の「引っ張り合い」という行動を通じて、ヒグマにとって登山者が「邪魔者」から「敵」に変化していったのかもしれない。

 遺体の状況は、かみ傷、ひっかき傷が多数あり、下腹部や大腿部がえぐられているが、座談会の出席者は「食害が目的ではないだろう」という点で一致している。腹を空かせて人間を「食べる」目的で襲ったという訳ではなさそうだ。

事故直前、同一個体による襲撃が起きていた

 実は同一個体と考えられるヒグマの襲撃が、事故の直前に起きている。福岡大パーティーに食料やコンロを貸した北海岳友会(北海学園大)のうちの5人パーティーが、7月24日午後2時半ごろ、九の沢に近い稜線上でクマに追いかけられた。岩の上によじ登ってかろうじて難を逃れたが、5人のうち、3人のザックがこのとき奪われている。目撃されたクマは2mはあろう巨大なクマ」で、福岡大を襲った小柄なクマとは食い違いがあるが、場所や時間からすると、同一の可能性は高い。

 さらに事件の約1カ月前、6月上旬に単独縦走に入った室蘭の会社員が、カムエク山付近で行方不明になっている。証拠は全くないが、天候は良く、滑落などの痕跡もないことから、ヒグマ事故との関連も疑われている。

「逃げるチャンスはいくつもあった…」ヒグマの危険性に関する知識の不足

 ヒグマの攻撃がエスカレートする中で、事故は避けられなかったのだろうか。地元の登山家は「日高のクマは大声やラジオで逃げると思っていた」というが、座談会出席者は「学生たちは、逃げるチャンスはいくつもあっただろう」と残念がる。結果論からすると、早めに下山する、あるいは他のパーティと合流するなどの行動があれば、この事故は起きなかった可能性は高い。

この点に関し、福岡大の報告書は

①ザックの中にあった金銭や貴重品がないと困る
②ザックやテントを持ち帰ろうと考えた
③日程的には無理ではなかった

と装備をあきらめてすぐに下山しなかった事情を説明する。また、「(人を襲うような)凶暴な熊については知ることができなかった」と、適切な情報が事前に得られず、危険の予測が難しかった点を挙げている。当時、現場付近にいた各登山隊のうち、北海学園大や帯広畜産大などの道内勢は比較的早く下山し、最後まで残っていたのは、福岡大と鳥取大、中央鉄道学園の道外パーティーだった。

 クマがいれば現場から遠ざかる、というのは、近年ではよく知られている対応策だが、もう一つ、移動するときはあわてず、固まって行動する、というのも大事な点だ。福岡大の一行も、後方にいるクマに気づいて逃げようとし、浮き足立ったり、バラバラになったりしている。野外でも複数の人が固まっているところをヒグマに襲撃された、というケースはきわめて少ない。複数死亡事故も、ほとんどが離ればなれになって被害に遭っている。
1984年、北海道放送の依頼で野生生物情報センターの小川厳さん(ヒグマの会元理事)がのぼりべつクマ牧場で行った実験がある。ヒグマの運動場にマネキン人形を吊して試すと、正面から向きあって近づけるとクマは後ずさりするが、背を向けて逃げる姿勢にすると、いきなり飛びかかって押さえ込み、放さなかった。

座談会でも、以下のように体験から生まれた遭遇対策が語られた。

「背を向けて逃げるのがいちばん危ない。本能的に襲ってくる」
「ばったり会っても、とにかく人間同士固まって行動する」
「興奮させない。石なんか投げると、かえって敵になってしまう」
「人間も怖いが、クマの方もそれ以上に怖がっていることが多い」

 また、クマ牧場の実験で、ザックを中に入れるとクマは強い好奇心を示した。1-2時間も熱中し、取り上げようとすると執拗に追ったという。小川さんは「クマに追いかけられた時にザックや小物を置いて時間稼ぎすることは有効だが、取り返すことは自殺行為だ。また、その場は助かっても、食べ物の味を覚えると、次の人が追いかけられることにつながるので、安易に物を手放すべきではない」という。

 今回のヒグマは、どこかの時点で、人間をつけねらう「異常なクマ」になってしまったが、それでも「ゆっくりと、できれば後ずさりして、クマの様子を見ながら離れる。仲間同士は、けして離れない」という、遭遇時の基本対策はある程度有効だっただろう。

 福岡大パーティーを襲ったと見られるヒグマは、7月29日、八の沢の現場付近で射殺された。駆除隊の前に警戒する様子もなく出てきたという。2-3歳の若いメスのヒグマだった。射殺後解剖されたが、ヒトに関するものは全く見当たらなかったという。

 遺骨は現場で荼毘に付され、翌年、遺品の多くが回収された。回収に参加した地元の町田さんは、「血痕がつき、ぼろぼろになったテントや、カメラ、登山靴などが残されていて、何とも痛ましい場所だった」と語る。
八の沢カールの現場には追悼のプレートがはめ込まれ、「高山に眠れる御霊安かれと挽歌も悲し八の沢」とある。

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